あずき

大豆は枝豆を食べれば、どんな鞘に何個くらい入ってるのか分かりますが、あずきって知りませんでした。

さやに入った小豆

さやに入った小豆

細長いさやに、いっぱい入っているんですね。知らないことって本当にたくさんあります。

たくさんの小豆

たくさんの小豆

今、カップやお皿に絵を描いています。いわゆる上絵付というやつで、焼きあがった陶磁器に絵を加えるものです。明日か明後日にはご覧いただけると思います。

ところで昨年末ごろから、久しぶりに小説を読むようになりました。美術関係の本や科学系の読物などはそれなりに読んでいたのですが、ストーリー物はなんとなく避けていました。気持ちを動かされるのがいやだったのと、たんに他人の空想に付き合うのが面倒だったからです。でも他に読むものがなくてなんとなく手を出すうちに久しぶりに面白くなりました。といっても、いしいしんじに、円城塔、伊坂幸太郎だけですけど。

いしいしんじという作家さんは12月からの1か月で4冊読みましたが、おそらく初期のものであろう「トリツカレ男」がストーリーとして、一番力んでいないように思いました。短いし気軽な内容なので列車や飛行機などの移動にお勧めです。他の作品も練られたストーリーでおもしろかったのと、おそらく作家ご本人として面白いもの、書く甲斐のあるストーリーを毎回模索しておられる感じがしました。凝ったストーリーを書こうとするとどこかに破たんが発生してしまいますが、「みずうみ」ではそれをすべて受け入れ、もしくは投げ出して別の境地に行かれたように思います。そして作品を追うごとに比喩表現のすごみが増してくるのが面白かったです。

かつて2冊ほど小説を買った事がありますが、円城塔という作家はとても難解です。そのややもすると言葉遊びに陥りかねないところを(おそらく世界水準に達するレベルで)小説にするというのはすごい能力ですね。人情とかしんみり、みたいなものを小説に求める人にはお勧めしませんが、僕はこういう空想と言葉だけできちんと世界を構築するものは小説でも詩でも好きです。「オブ ザ ベースボール」はその中でも難解ではない方だと思いますが、年に1度空から人が降ってくる街を舞台として、バット1本でそのパトロールをする主人公、というのは設定からしてついていける人を選びます。でもなぜか読後感がさわやかというか、前向きな気持ちになるのはなぜでしょう。楽しいですね。

伊坂幸太郎さんは(今頃かい、という突込みが入りそうですが)「フィッシュストーリー」を読みました。重い、深い、というお話ではないのですが、静かに「ほんまかい」と突っ込みを入れたくなるけど嫌みのない読後感でした。こういうストーリーをかけるってすごいですね。 短編集なのでほかにもいろいろな話が入っているのですが、一番おもしろかったのは「サクリファイ」。登場人物たちのかくれた思いがちょっと山本周五郎のそれを思わせる感じで、ちょっとグッときます。どの短編も悪い人が出てこないし、悲しい結末もないところが自分としてはうれしかったです。

知ろうとすること。

TPPや原発のことなど、大きなことだけどどう考えていいのかわからない問題ってたくさんあります。なんとなく先送りにして誰かが良い知恵を出してくれるのを、あるいは解決してくれるのを待っている僕ですが、もしこうした問題を喫緊に自分で判断しなければいけない事態になったらどうしたらいいでしょうか。

例えば震災後に原発が不安定な状態になって、自分の住んでいるところに影響が出そうなことになったら。

「知ろうとすること。」という本を読みました。

コピーライターの糸井重里さんが震災直後に福島の原発で起きた爆発後、いろいろな判断をする際に最も頼りにしたというツイッターを発信していた物理学者さんとの対談です。

そもそも僕も、知ろうとする気持ちはあっても、実際知ろうという行動はしていない。こういうのが一番危ないですね。

危ないというのは、正義を振りかざしたり、恐怖を煽ったりする意見に惑わされやすいからです。

早野先生によると、福島のデータでは、内部被曝の心配はほとんどないという結果が出ているのだそうです。なんでそれを僕は知らないんでしょう。

僕は心情的には原発反対ですが、だからこそ「放射能は危険だから反対すべきだ」という意見に盲目的に惑わされがちです(実は放射能=なんでも危険、というわけではない)。一方で将来の安全よりも目先の食い扶持だ、という人もいたり、あるいは鼻血がでるほど危険だという漫画原作者もいたりするので、なんだかもう自分で知ろうとしてもわかることがないような気がして、知ろうとしていないんですね。名前が「しろう」なのに(笑)。

あとがきで糸井重里さんが、より信頼できる情報を選ぶための条件を5つ挙げてくれています。どれも納得の行くものばかりですが、一番最後のが最も必要なように思いました。

「よりユーモアのある方」

どんなひどい事態でも、先への希望を持ったり、今を客観的に見る目は必要です。そんな意味でもユーモアは大事。

でもこれは5つある条件のうちの5つ目。他の4つはこれ以上に大事です。ぜひ読んでみてください。

そして本文中のこの言葉こそ、僕のことかいな、とグサッときました。戒めにしたいと思います。

糸井 福島のことを心配しているようでいて、いまも、事故直後の「福島は放射能で汚染されちゃって、たいへん」っていうままの知識でいたりする。

※11月15日、一部追記

ブックガイド「世界のワイルドフラワー」ーなぜ日本では球根を掘り上げるの?がわかる写真集

[stamp13084511]head2チューリップの球根はなぜ掘り上げるのか、宿根草はなぜ水はけのよいところに植えるものが多いのかー。園芸書には「そうするべき」とは書いてあっても、なぜそうなのかは書いていないものです。私も園芸誌の編集部にいながら、ただ漫然と「そういうものだから」としか考えていませんでした。

ところがある日、この本のページをめくって驚きました。ひび割れるほどカラカラに乾いた大地に咲く1輪のアイリス。「こんなひどい場所で、誰も手をかけないのに、どうしてこんなにきれいに咲くの!?」

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「世界のワイルドフラワー」。残念ながらすでに中古本しかないかも

本のタイトルは「世界のワイルドフラワー」(学研)。ワイルドな花の紹介ではなく、世界中の野草の紹介です。ヨーロッパ&アフリカ編と、アジア&オセアニア&南北アメリカ編の2巻構成。
内容は世界に自生している野草の写真とその説明でうめつくされています。野草といってもつまりは私たちが庭で見慣れているビオラやクロッカス、バラなどの原種なので、親近感がわきます。園芸種のように1株ずつは花いっぱい、色いっぱいではないですが、むしろその楚々とした雰囲気に好感を持つ人のほうが多いのではないでしょうか。

乾燥した大地に咲くアイリスが載っているページ

乾燥した大地に咲くアイリスが載っているページ

ページをめくると、それぞれの植物が実際にどのような環境にいるのか、よくわかります。例えばシクラメンは落葉樹林に、まるでカタクリのように群生しています。半日陰にいるから葉っぱが大きいんですね。
チューリップは小石だらけの乾燥した場所に生えています。だから葉っぱが雨どいのようにU字型になっているんですね。雨や朝露を根元に注ぎ込めるように。そして花後しばらくするといっそう暑い季節になるので、カラカラの土の中で球根が休眠します。日本(特に本州)ではしばらくすると梅雨になるので、乾燥させるべく掘りあげる。なるほど。そういう理由だったんですね。

ガーデンプランツとしてよく見かけるアンチューサやヘリクリサム、ポピー、ルピナスなどの植物も土を見ると小石だったり岩の付近だったりします。だから庭でも水はけのよい場所に植えるんですね。つまり1つ1つの花の栽培法を知りたいなら、園芸書の一言一句を忠実に守る前に、自生地の環境こそ知るべきかも。

歴地に生えるコマクサ

歴地に生えるコマクサ

襟裳岬近くのヒダカミセバヤ

襟裳岬近くのヒダカミセバヤ

これを北海道の野草でみてみると、例えばコマクサの難易度が高いのもわかります。高山にあるばかりでなく、ほとんど小石だけで水が全部抜けてしまうような場所に自生しているので、気温と水はけが大事だということがわかります。
ヒダカミセバヤは多肉植物なので「乾燥させればいい」と思いがちですが、実は海辺で水がしたたるような場所で株を見たことがあります。実は岩場で水が全くたまらないようなところだったのですが、それを見ると、水はやらないのではなく、水はけこそ大事だということがわかりました。

それにしてもこの本に掲載された植物の豊富なこと。またそれぞれの花の写真がとてもきれいですし、花と一緒に風景も写っているので、海外の自然の空気感まで感じられる気がします。植物が好きな人なら、いくらページをめくっても飽きないことでしょう。

そして先にも述べたように、こうして周囲の環境と植物を見ていると、それぞれの花がどれも環境に応じて、必要な葉の大きさや形になっていて、株の高さや花期もちゃんと理由があることがわかります。植物ってすごく合理的なものなのだな、ということが実感できる本です。

関連する本:
園芸ガイド「2013年夏号」巻末特集に、ポール・スミザー氏が北海道の大雪山に登って高山植物を観察する記事が7ページ載っています。私がテキストを書いたので、ここで宣伝してるみたいですが…。

雪だらけ

今日はすごく降った。
それにしても天気予報を見ても降雪量がまったくわからん。「栗沢は◯cm」と言ってくれればいいのだけど。
そんなわけで、雪かき。降るし雪は重いし。

干される手袋たち。「あー今日は疲れたー」

そもそも、雨雲レーダーを見てもどこが栗沢だかよくわからん。今日は天気予報の不満がいっぱいだ。

いっぱいなのは不満だけじゃなくて、年末進行ということで仕事もいっぱい。
ありがたや。来月はそうでもないけど。
今日はポール・スミザーさんの本を久しぶりにいろいろと読み返した。この人はやっぱりいいな! 何しろ「こうするべき」って言わない。植物本位で、しかも自由だ。うれしい。
なんだか最近「べきべき」仕事が多くて窮屈でしんどい気持ちだったが、ついでに雪かきで集中して体を動かして気分も少しすっきりした。

「安心して絶望できる人生」

図書館から借りてきた。
タイトルは大仰だし、一見病院にかかるほどの精神的問題を抱えている人向けの本に見えるが、自分の中で「こりゃたまらん」と思うことは誰にも1つや2つのみならず、いくつかあるはずで、それに困っている人にはお薦めだと思う。

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「なぜか○○がやめられない」「自分の○○なところが困る」という問題には「研究」という態度が面白そうだということもわかるし、なによりこうしたことへの取り組みが我々の住む北海道で実践的にかつ楽しくされていることを知るだけでも、嬉しい。という1冊。

「シナリオ人生」

仕事のことで少しムッとしたので、新藤兼人「シナリオ人生」を読んだら、そんな小さなことはどうでもよくなった。

相似形で眠る親子

ダイちゃん、それはブロッコリー。

あずと寝る妻

星野道夫「旅をする木」

いつも何かに追われているように仕事をしている。実際、締め切りだの目標数字だのに、追われている。そうじゃない人でも、世間の評価とか顧客対応とか、芸術家だって自分もしくは世間が課したレベル以上の仕事をしようと追われている。その中でたまにうまくいったら「勝った」とか「やっつけた」と言い、うまくいかないと「苦しい」とか「うしろめたい」とか言っている。そうした中で生きている。

でも世界のほとんどはそうではない部分が大多数を占めている。

毎年、繰り返し繰り返し咲くこと。毎年、同じ時期に海を渡って移動し、また別の季節にもどってくること。雪が溶け、草が生え、花がさき、実がなって枯れること。それを何百年、何千年、何万年と続けている。

何にも追われない。季節が巡り、それに合わせて生きているだけのこと。あるいは死ぬだけのこと。

そんなことを地球の自然は、何万年、何億年、何十億年のあいだ繰り返し続けている。

もちろん、今でも生命の歴史の中ではそれが当たり前だし、生命は地球上に大から小まで無数に存在する。

だからこそ、この今と言うときに出会えたこと、いきが通じ合うことのふしぎさを著者は感じている。そして、直接出会えないものでも、今同時に生きているふしぎさを感じている。

そのふしぎさは宇宙に私が、あなたが、目の前の花が生まれた偶然を寿ぐことに通じる。

しかし、それを寿ぐ喜びを知らないのは、せまい世界で、何かに追われているわれわれだけだ。我々の世界は、宇宙の中ではもちろん、地球の中でさえ、せまく短い。我々が「世界」と呼んでいる世界は、実は本当の世界の中のほんの一部で、ほんの短い時間だけなのに、そのことに気づかない。そして著者はそのことに気づいて、そのことに何度も驚き、宇宙と地球と生命の長さと広さに敬意を表明して、自然がもたらす偶然を寿いでいる。