脚本は誰のものか:再び

今、依頼された脚本を書いています。やはり難しい。
難しい要素はたくさんありますが、その最も大きなものとして、
「脚本はセリフではなく、情景を書くもの」なのに、情景は演出家によって全て変えられてしまうと言うことです。
脚本家の失敗の要素として、セリフだけで構成することがあげられます。セリフは舞台の一要素にもかかわらず、セリフを書いているとそれが別のセリフを呼び、いつの間にか生身の人間がたっていることを忘れたものになることがあります。少しくらいなら、それもよいでしょう。役者さんにとってもよい刺激になると思います。でもそれだけでは、脚本は成立しません。音符以外にも、楽譜にかかれる要素がたくさんあるのと一緒です。だから情景会ってこそのセリフで、あくまでせりふはト書きに従属するものと考えた方がよいでしょう。
でもねえ、指揮者の仕事が楽譜の再現ではないのと同じように、演出家の仕事は脚本の再現ではありません。だからいくら脚本家が「これはすごい、すてきな情景だ!」と思っても、演出家はその通りにはしません。
まだ僕の中でこのへんの問題は解決しないようです。
情景の書き込みと、セリフの書き込みにやや感じるむなしさをどう乗り越えるべきか、迷います。