構成の実現の仕方

では、具体的にどのように構成はつくられるものなのでしょうか。
まずは、ある程度アイデアがそろったところでそれらを集めてみます。
次に、わかっている範囲で、要素をストーリーで並べてみます。
そして、流れが変わるところで、大きく3つに分けてみる
それぞれのかたまりに名前を付けてみます。かっこいい名前ではなく、流れが具体的にわかるように。例えば「出会いから最初の別れまで」「逃亡から再会まで」など。
そしてそのかたまりの中で、今度は中くらいの固まりにアイデアを分けます。おそらくそれがシーンになると思います。そしてそれぞれのシーンに名前を付けます。

はじめはこれだけでは物語は生成されないと思います。
しかし、大まかな流れはできたことと思います。わからない場合は、思い切って順序を変えてみるとよいでしょう。
そうするうちに、シーンからシーンへ移るまでに足りないシーンが見えてくるはずです。
例えば「出会いから片想い」というシーンの次に「相思相愛から別れ」があるとすれば、その間に「片想いから相思相愛へ」が不足しているとわかるはずです。これが1つかもしれないですし、2シーン足りない場合もあります。
自ずとそのシーンを加えなければならず、およそそれがどんな形で必要かも見えてくるでしょう。
見えてこなければ、アイデアを考える作業に戻ります。
もちろん、不足していたシーンの中身もアイデアを出す必要があります。

つまり、こうすることで脚本全体の中での幕の意味、シーンの役割が明確になるのです。
意味や役割のない幕・シーン・デハケ・セリフは存在してはならないのです。なぜならそれは演出や役者、スタッフに無価値なものを引き渡すことになります。彼らは観客に対して無価値な時間を1秒たりとも提供することを許されないわけですから、当然何らかの意味を加える責任が発生します。それ以前に脚本に無意味な時間があるとすれば、それは脚本家の責任放棄。それは彼らから二度と信用されません。

構成とは文法

私が今書いている文章を、あなたは理解することができます。なぜでしょう?
日本語を知っているから? それはつまり日本語の単語の意味を知っているから、そして単語同士のつながりで文の意味をつくる文法を知っているからです。
脚本にも同じことが言えます。
何度も書いたように、脚本は演出家、役者、スタッフ、そして観客に伝わってナンボの表現です。
しかし、私とあなたとの間を介するのに日本語があったようには、脚本家と彼らとの共通の文法はありません。
台詞の1つ1つが音節、シーンが単語、幕が文節、脚本全体が1つの分と考えてみましょう。それらの組み合わせから1つの意味を導く文法は、残念ながらありません。それは脚本それぞれによってちがうからです。仕方がないので、脚本を読んでもらう中で、脚本家が作った文法を読みとってもらうしかないのです。
そのためには、文法はきちんと読めば誰にでも共通に理解できるものでなければなりません。そもそも理解するためには、論理的な組み合わせであることが必要です。書く側の好き勝手では、読み方も不明だし、演出家や役者スタッフの皆に共通の理解は生み出せないことはおわかりでしょう。(もちろん、読みとる側がわざと文法を誤読して、全く理解の異なる舞台をつくるのは自由です)
文法に相当するのが構成です。だから構成は大切なのです。

構成・展開・軸

今回は構成のお話をすると予告しましたが、その前に構成の定義について。

物語は1人の登場人物だけで成立することはありません。よい物語は人物それぞれに問題と解決が用意されています。たとえば、宝物の探求から発見へ。あるいは片想いから恋愛(あるいは失恋)へ。あるいは父との葛藤から和解へ。つまりみんなにスタートとゴールを用意するわけです(今あげた3つはインディジョーンズに表れます)。そのスタートとゴールをつなぐ線を、私は「軸」と呼んでいます。軸が相互に影響し合って物語は進んでいくわけですが、その変化を「展開」と呼びます。

「構成」は展開を節目ごとにユニット化したものと考えればよいでしょう。ある人物の心境が変化した瞬間と、次に変化する瞬間をつないだ部分。あるいはある人物の登場から退場まで。あるいは暗転から暗転まで。小さな箱が集まって大きな箱を形成し、それらが集まってさらに大きな箱を形成し、全ての箱が集まって物語という箱を形成する、それが「構成」とお考えください。

ええっと眠くなったので、今日はここまで。次回は「構成とは演出や役者・スタッフに物語を伝えるための文法」というお話。

脚本は伝わってナンボです

 脚本の書き方4回目は、脚本をわかりやすく伝える必要性についてです。
 創作物は往々にして作者の「表現」であるが故に、意味に関して独善的であっても許される素地があります。平たく言うと、「アートは意味じゃなくて表現だから、作者がわかっていればそれでいい」と許されます。
 他の分野はいざ知らず、脚本はしかしアートではありません。理由は、演出家や役者、スタッフに理解してもらい、彼らのフィルターを通して観客に伝わらなければいけないからです。もちろん、伝わるのは脚本家が書いた時に意図した意味と変わっていてもかまいません(これについてはまた別の機会に書きます)。いずれにせよ、脚本は「伝わって初めて意味を持つ」創作物です。このへんが絵画などと違うところで、つくる側は伝えるための仕掛けを用意しなければなりません。

仕掛けの中でもっとも大事なのは、構成です。幕がいくつかあり、その中に場がいくつかあり、その中に人物の出入りがあり、人物が話すセリフがある…。という入れ子構造を頭に入れ、それぞれがどんな意図を持つのかも書き手は意識する必要、もしできれば書く前に設定する必要があります。意図のないセリフ、意図のない人物の登場、意図のない場…などあり得ません。もちろん意図のない小道具、意図のない間、意図のない音楽なども出せません。なぜなら書いた瞬間から、演出家や役者にとって、それらは「脚本を理解する手がかり」=「意味のあるもの」として存在し始めるからです。(逆に言えば、脚本家が意図を以て書き込んだものを、読み込めない演出家や役者はあまり有能ではないといえるでしょう。)

 また同じ意味で、表記も大切。同じ人物を「田中」と書いてあるか「タナカ」と書いてあるかで、読み手は別の意味を感じ取ろうとします。同じ意味を持つものは同じ表記で、というのも鉄則です。

 なぜこんなにうるさく書くのかというと、何度も言うように脚本は「伝わってこそ意味がある」ものだからです。確かに描き手が脚本に込めた意図を演出家はそのまま理解してくれるとは限りません。しかし、できるだけそうしてもらえるように最大限の努力を払う必要があります。そうでなければ、なんのためにこの脚本を書いたのか、それ自体が演出家に渡した途端意味を持たなくなってしまいます。それではあなたが脚本を書く必要はなくなってしまうでしょう。伝わるべく最大限の努力をすることは、何より、書いているあなた自身のためでもあるのです。

 次回は構成について。これこそが脚本の命です。

何を書くべきか

今回は、「脚本を書く動機」についてです。
よく映画や小説、演劇を見たり読んだりした後で「この作品のテーマは…」と論じたりする人がいます。それは見た人の自由なので、何を言ってもかまわないのですが、つくる側としてはテーマそれ自体を最初に設定する必要はありません。むしろ設定しない方がよく書けるといえるでしょう。
テーマがあるとそれに束縛されます。むしろあなたの書きたいものは脚本を作る過程でも変化していくことでしょう。はじめに「書こう」と思ったことは、脚本の仕上げの段階で振り返ってみると、かなり陳腐な印象を持つことが多寡あります。またテーマはこちらが気張って設定したところで、演出家の解釈によってそれが変わる上、観客の受け取り方によっても変わります。
つまり、テーマは設定する必要がない、といえます。
では何を動機にして書けばよいのでしょうか。

1つには、あなたが「こんなシーンを見たい」「こんなセリフの応酬を実現させたい」「こんな人物に、こんな結末を用意したい」という、あくまで脚本上で実現したいイメージそのものです。
例えば「アポロ11号の月面着陸で設置されたアメリカ国旗の代わりに、別の旗をつけたい」「手紙が迷子になって世界中を旅して、それでも宛先に届くような話をつくりたい」「夕焼けの向こう側はどんな世界があるのか見せたい」などのイメージを組み合わせてつくったのがこれです。
はじめはおよそ3つのイメージがあれば、それら組み合わせてある程度話が見えてくると思います。それらは、一見なんの関係がなくてもかまいません。さらにイメージを(つまりアイデアを)出し、おぼろげな話に加えていくと、徐々に実現したい物語が見えてくるはずです。イメージの順は当初考えていたものよりも、大胆に前後を入れ替えてみると新しいものが見えてきたりします。またはじめに「これがラストシーンだ」と思っていたものも、思い切って中程に持ってきて、それを超えるイメージをつくってみるよう努力してみましょう。イメージ(ほぼここではアイデアとイコールです)の大胆さ、オリジナリティこそがあなたの脚本を左右するので、この段階での力と時間の投入はとても重要です。初めて脚本を書く人は特にここが大切。慣れてくれば、イメージ(アイデア)を出すことが比較的無理なくできるようになってきます。(理由はよくわかりませんが、脳の中の神経は必要に応じて長さや互いの関係を変えるらしいので、その辺が関係するのかもしれません。)

大切なのは、アイデアをもったいぶらないこと。「これで十分」というアイデアはまだ不十分であることが往々にしてあります。それは次の新しいアイデアが浮かんだ時に痛感できるはずです。その意味で最初に「テーマは最初に設定しても後に陳腐に感じられる」と書いたことがおわかりいただけると思います。すなわち、テーマ設定そのものが意味のないことなのです。
脚本を作るために必要なのは、あくまでもあなたが舞台の上で(いや、前回書いたように現実の上で)実現したいイメージ。あなたがそのイメージに対してどこまで「実現したい」と熱意が持てるかで、脚本の重みというか、完成度は大きく変わります。

ではイメージの組み合わせを、読み手にどう伝えればよいのでしょう。次回は「脚本はアート?エンターテイメント?」です。

アイデアはどこから

脚本の書き方、その2。と言うか、前回の前の段階について。
前はアイデアをいかに集めるかと言うことでしたが、そもそもアイデアはどこからでるかというのが今回の話。
正直言うと、これが一番難しい。いや、どれも難しいんですが、説明の仕方が難しい。
アイデアの素地は、知識と発想にあります。いかに奇抜なアイデアも、豊富な知識(経験を含む)なしには出ないです。かといって、知識だけでは学者になってしまうので、日頃から他の人とは違う発想をしておく訓練、もしくは天性が必要です。
それは何で作るかというと、1つにはあなたが「おもしろい」と思った人、思っている学問を追究することです。おもしろい人というのは(当然ですが笑わせてくれる人ではなく)、通学・通勤など日常の中で気になる人のこと、学問とは例えば天文学、考古学、物理学など、あなたが「世界の不思議」について考える入り口になる分野です。
もちろん、映画や小説などもよいのですが、往々にしてその作風や発想の範囲でしか、あなたのアイデアも出てこなくなります。コピーバンドではなく、オリジナルの楽曲で人を感動させたいなら、むしろそう言ったものは忘れた方がよいでしょう。と言うか、そう言うものが好きならそれをそのまま舞台に持って行けばいいのです。
そして脚本のアイデアを出すために、何よりも大切なことは、演劇の力を信じることです。あなたの空想を現実の中で再現する唯一のメディアは演劇のみです。小説は文字を使って読者の頭にあなたの世界を再現すること、映画はスクリーンの中に再現すること。でも演劇だけは舞台の上という限定された空間とはいえ、まさに現実の時間と空間の中にあなたの世界を再現できます。
つまり、あなたは自分の好きなこと、こうありたい、こうあって欲しいと思ったことを現実に再現する権限を与えられたのです。であれば、最大限の能力と努力を以て、よいアイデアを抽出したいでしょ?
…次のテーマは「何を書くか」です。副題は「イイタイコトなんかくそくらえ」です。脚本はプロパガンダのためにあるのではありません。では次回。

脚本作成ブログも始めます

近所の公園でクロッカスが咲きました。
とうとう春です(私の住んでいるのは北海道なので、本州の人から見ればかなり遅い春です)。
ムラムラとやりたいことがわいてきます。いろんな話を見せたい。
そうそう、依頼されている演劇脚本もそろそろ考え始めないといけません。こちらは別途ブログを立ち上げて進行状況を逐一報告する予定です。お楽しみに。