演出・コーディネイト・プロデュース・編集

ピアノと踊りとの即時的パフォーマンスに対し、演出をすることになりました。ピアノは百瀬俊介氏、踊りは若松ゆきえさんです。

演出をするというのは間違いですね。
演劇ならともかく、それ以外の見せ物についてはほとんど知らないし、好みの範囲もかなり狭い私が、パフォーマンスの演出をしてはいけません。というのは演劇の演出は自分の感性のフィルターを通して観客に見せ物をつくる作業だと思うからです。

元々ピアノと踊りの二人はこれまでも自分たちでやってきたので、すでにある程度観客も実績もあります。だから本当は私が介在する必要はないのですが、「観客に見せる前に、客観的に見る人が欲しい」という意味で依頼されたのでした。

そうすると自分の仕事は演者の2人の演者と観客とをつなぐこと。それってコーディネイターみたいなもんです。(訪問者の目的が達成できるようにガイドする人ですね)

だったらもっと演者の魅力を引き出す仕掛けを考えて提案したいです。またそれで生まれるものを従来の2人のパフォーマンスに満足できなかった人や、その他の従来の舞台表現を面白く感じなかった人にも、楽しんでもらえるようにしたいところです。そういう役割の名前は何というのか知りません。興業自体に責任は持たないので、プロデューサーとも違います。
見る人のみたいものを想像し、それに合わせて素材を提供することを考えれば、編集者という方がいいのかもしれません。

これについては追々報告することになりそうです。またブログか何かを立ち上げて、互いの連絡と観客になる人たちへの経過報告をすることになると思います。

依頼脚本を完成させるモチベーション

昨年来、依頼されていた脚本がようやくのこと完成しました。

依頼されて難しいのは、与えられた条件をクリアすることよりも、書き手としてのモチベーションをつくることにあるようです。
自分で上演するために書くのであれば、あるいは自分でテーマなり条件を設定するのであれば、それをどう実現するかと言うことで自然にモチベーションになるのですが、私の場合、今興味がある脚本は「単語が全くないか、数が少ない」のに成立する物語です。そんなものは演出まで自分でやるという条件じゃないと、依頼者に渡しても何も読み取れなくて使い物になりません。

だからせめて書く自分にとって新しい試みをする必要がありました。これがまた難しい。どんな試みがあったかは、下のリンクをクリックしてお読み下さい。脚本はプロットの段階から全てオープンになっているので、読むのも自由です。

そういえば今回の試みとして、この「作成過程をオープンにする」というのがあったのでした。やる前はその過程でコメントなりトラックバックでインスパイアされて脚本が変わっていきそうで楽しみだったのですが、実際は刺激的なコメントがあまりなくて、インスパイアされることはほとんどありませんでした。残念。しかしこういった試みは続けていこうと思っています。
→新作「三人男娼 – songs and flowers」はこちら

バーバスカムのこぼれダネと物語

Img_4802写真は少し前になりますが、晩秋のバーバスカムのこぼれダネです。
アスファルトの隙間からよくもまあ、出てきたものです。写真には写っていませんが、この周囲にもちらほら、大小のロゼットが展開していました。その親らしきバーバスカムも近くにあります。そちらは高さ1mを越え、立派な風格。

この小さなロゼットも冬を越し、来春には大きく生長することでしょう。そしてまたどこかに小さなロゼットをつくるべく、タネをとばすはず。そしてそのタネも…。
ネバーエンディングストーリーです。

看板2題

今日は少しなんでもない話題を。
事実は小説よりも奇なり、ということわざがありますが、ちまたのお店の看板は時々下手な虚構よりも想像力を刺激します。

昨日そんな看板を2つ見つけました。1つは
「鉄板焼き わたあめ」。
わたあめという名の鉄板焼きやサンなのでしょうか、それとも鉄板で焼いた綿アメを出すのでしょうか。すごく想像力を刺激してくれます。

もう1つ。
「炭火焼き 生つくね」
焼いてんのかナマなんか、どっちやねん!
…いろんなお店がありますね。事実は小説よりも奇なり、でした。

敬愛に経済合理性を

「命は大切だ」といろんな人が百万回言ったところで、あるいはその具体例を何万例も見せたところで、昨日言ったように保健所に送られる犬や猫の数は減らず、イジメの数も減らず、戦争で不合理に殺される人の数も、残念ながらすごく減っているとは言えません。
果たして、命は大切と言うことを訴えることが有効なのか。
そのことをもう少し根本的に考えてもいいのではないかと考え始めています。
私の私の家族の命を大切なように、私の敵になる人間も自分の家族が大切と思うことでしょう。敵か味方かになるかはすごく些細な動機で、それをあとで理屈付けするのが宗教やら人種やらお金だったりします。そしていったんそれに火がついたら、つまり憎しみの連鎖が始まったら、そのレートはどんどん上がる一方になります。
つまり発端となる愛が憎しみを増大させていくだけです。さらに憎しみには経済合理性があります。憎しみを解消するために武器を使い、貯蓄をはき出し、防御を固める。当然あいても同じように、お金をそう言うものに使うことでしょう。つまり武器関係の経済合理性はとても高い。だからこそ、憎しみはいったん火がついたらそれに薪をくべ続ける人間が存在する、と思います。
すなわち、戦争をなくすには愛に経済合理性を付加することがポイントなのではないでしょうか。家族の命から動物の命まで、全ての命への敬愛が経済合理性を伴えば、その増大に薪をくべ続ける人間が現れるはずです。たしかに、お金儲けとは縁がないからこそ、愛は無償で価値があるのかもしれません。しかし憎しみにだけ価値があるという原理に、何らかの終止符を打つ方法は考えなければなりません。
そう思いませんか?