台湾の路地園芸

 Img_4692_1台湾に行ってきました。旅行で何より楽しいのは、その地での人と植物の関わり。つまり、路地園芸ですな。
軒の屋根や雨樋にたまった土から、いろんな植物が生えているのは、さすが亜熱帯。種類で言えば、クロトン、ランタナ、カポック、ストレリチア…。日本では観葉植物として室内で大事にされているものも、屋外で野放図に。その風Img_4695貌はお座敷犬と屋外で飼われている犬くらいの違いがあります。
下の写真の屋根にはなんとサンセベリアが自生。この家の人たちは、さぞかしマイナスイオンに包まれて、穏やかに暮らしていることでしょう。

今日の夕暮れ

Img_4295
なんででしょうか。夏の盛りから秋に書けての北海道の夕暮れはすごく美しい。そして秋に書けて毎日変わっていく。

上川駅

Img_4292
昨日層雲峡に、仕事で行ってきました。それもさることながら、アクセスのために下車した上川駅です。
うーん。北海道の地方の駅なら当たり前の風景。人はおらず、コンビニはなし、特急が停車するのに駅員さんは1名。
でもこのところの東アジアでの北海道ブームで、台湾の人とおぼしき家族連れとカップル。ここから層雲峡に行くバスの乗り場では、日本語だけではなく英語と中国語でアナウンス。
ある意味中途半端な町よりずっと国際的。

今日の夕暮れ

Img_4266
今日もきれいな夕暮れ。年を取って死ぬまでに、できるだけたくさんのよい夕焼けを見たい。

脚本は脚本家が「書く」べき?

今回は書き方ではないですが、いつも脚本を書く時に思っていることを少し。
脚本はそれ自体で「作品」ではなく、演出家や役者やスタッフのクリエイティビティを経て「演劇」になった時に初めて観客に評価される作品になると思っています。
ではそこで疑問に思うのが、脚本はなぜ脚本家一人が書かなくてはならないのか、ということです。
なぜ演出家や役者、スタッフとのミーティング、ブレインストーミングがないのでしょう。劇団の代表が演出家と脚本家を兼ねている(しかも時々役者まで兼ねている)家父長的団体であれば、脚本家の意見は絶対のものになるでしょう。しかし、観客の前に演出家も役者もスタッフも、そして脚本家も平等であるはずです。そして「演劇」という作品の出来について、関わる全員に責任があるはず。
ということは、脚本の作成過程から他の全員にも参加してもらうべきではないでしょうか。
船頭多くして、ということわざもあるので、あくまでコンセプトを主導するのは脚本家で、意見が割れた時にもストーリーのプロである脚本家の主張が尊重されるべきでしょう。
そんな風な演劇づくりがされることはないのでしょうか。
少しそれに近いものを狙って、現在執筆中の「ススキノ脚本」ではブログという形で全員の意見を出せるようにしたのですが、まだプロデューサーがこまめに意見を書いてくれるものの、演出家は1回だけで、後はまだありません。ぜひもっと活発な展開にしたいところです。が、上演が延期になってしまいました。
全員がはじめから参加すれば「書いたものが勝手に台詞を変えられている」という、脚本家をバカにした事態もなくなると思うのです。上演された舞台のおもしろさに責任を持つのは演出家ですが、かといって演出家だけでおもしろさを作っているわけではなく、役者、スタッフ、脚本家も含めてそれを担っています。意志を尊重しないで役者の演技を変える、一方的に台詞を変更するのは、やはり演出家は家父長的な存在だと考える人が多いからでしょうか。