シンプルに生活するということ

すでに先週のことになるが、札幌でベニシア・スタンレー・スミスさんの講演会があり、それに先だって取材をさせてもらった。

ベニシアさんは京都の大原に住んでいるハーブ研究家で英会話教室の先生兼社長である。英国の貴族出身らしいが、ヒッピー時代にインドに渡ってその後日本にやってきた人。

基本的に、何を基軸に生活するのかというところが揺るがない。これは先月のポール・スミザーさんについても同じことが言える。英国人だから、というのではなく、おそらく日本にまでやってきてここで生活するということを覚悟したときに、自動的に何らかのトレードオフを決心したのだろうという気がする。

サラリーマンをやっていると、というよりも何らかの商売をしている人はみな、目の前のお客に対して何かを売る以外の調整や根回し、気遣いをこれでもかと言うほどせざるを得ない。しなくてよいのは職人だけだ。その代わり、職人さんはほかにつぶしがきかない、少数のお客の浮き沈みに翻弄されるというリスクを背負う。

このところよく思うのだが、職人になりたかった。でも徒弟制度にはとてもじゃないが辛抱できないし、冒険心がうずいてしょうがないだろう。まあ、まずできない。

でも職人的技術がなくても、職人的感性を大事にしながら生活することはできる。

生活のコンセプトを自分の価値観におく、シンプルにかせぐ、ということだ。

商売人と呼ばれる人は、おそらく多方面の複雑な利害関係の中で調整しつつ、目先ではなく中長期的最適利益を直感的に裁ける人のことを言うのだろう。それは悪口ではなく、特技への評価だ。

でも、とうてい自分にはそれができない。

雑誌というのは、お客がふたりいる。ひとりは読者、ひとりは広告クライアント。

そしてマネジャーともなれば、さらに上司と部下という相反する利害関係の「お客」を抱える。お客としたのは、どちらも自分にとって、自分のなすべき事をなすための協力者だからだ。社内のこのふたりのお客なしには、雑誌は出ない。

さらにはライターやカメラマン、デザイナーなども、こちらがお金を払っているけれども「お客」である。

さて、お客が多すぎる。

物事が複雑になるとこんがらがりやすい私にとっては、お客が少ないのが理想だ。できれば1人に絞りたい。

それでなければ、せめて1方向に絞りたい。

そんなシンプルな生活をしてみたい。

1方向が無理なら、いっそ、自分と多。

自分が何らかのコンセプトを実現するために、他(多)の力を総動員するような。

プロデューサー。

そういえば、落語の寄席の小屋主になりたいと思うこともある。

その日の天気や客の入れ具合によって、噺家とネタを決められたら最高だ。

NYにハイライン公園というのがあって、ここは昔の高架鉄道の跡地をそのまま植栽して講演にした場所。

そんなパブリックスペースをプロデュースして、適材適所でガーデンデザイナーに庭を作ってもらう仕事をしたい。

あれ、これはシンプルなのだろうか。