愛こそが戦争の始まりなのか

太田光と中沢新一の「憲法9条を世界遺産に」を読みました。1週間前のことですが。
賛同したいところとクエスチョンマークの付くところとがありましたが、読む中で考えたのが、戦争は愛によって始まる、ということでした。愛するものを殺されたら、その憎しみでその相手を殺すでしょうから、その延長線上にある戦争をどう抑止するか、ということです。「憎しみの連鎖」を断ち切ることは浦沢直樹さんの「プルゥートー」でも言われていることですが、これをどう実践するかはかなり難しいところです。
また太田さんが「憲法9条を世界遺産に」の中で9条を世界遺産にという一方で、家族を殺されたら敵討ちをする、というくだりも印象的。正直、私もそうするでしょう。


愛するものがあるからこそ、戦争も始まるという論理ですが、はて。
殺人の連鎖ならわかります。でも現代の「戦争」は、殺人の連鎖の延長線にあるのでしょうか。相互殺人の連鎖は、どこまで行っても殺される人数は常に1人ずつです。100万人の人間を殺すなら、互いに50万回の憎しみが必要です。おわかりのように、1人の殺人を戦争の導火線にするのは困難です。
仮に、一度に1000人の人間を殺されたとして、敵の1000人を殺すのに、十分な憎しみを持った人間を調達することは可能でしょうか。おそらくそれも困難でしょう。つまり互いの憎しみの交換と戦争は道義ではない、と言うのが私の考えです。
でも現実には数人の殺人から戦争に発展する例があります。
ということは、どこかで、誰かが論理のすり替えを行っているのでしょう。
だれが?なんのために?
戦争を起こすことで有益な状態を実現したい人間が、自分の主張の実現のために。
愛は殺人の動機にはなっても、大量殺人である戦争のきっかけではない。
戦場で、自分が対峙する敵の兵士が、自分の肉親はおろか関係者を殺したわけでもないのに、殺していいとする論理自体が、戦争の矛盾を示しているのではないでしょうか。誰かが、論理をすり替えています。
誰が? 戦争によって有益になる誰かです。銃を持つ、あるいは爆弾のボタンを押すあなたの憎しみの解消がそうするのではありません。