星野道夫「旅をする木」

いつも何かに追われているように仕事をしている。実際、締め切りだの目標数字だのに、追われている。そうじゃない人でも、世間の評価とか顧客対応とか、芸術家だって自分もしくは世間が課したレベル以上の仕事をしようと追われている。その中でたまにうまくいったら「勝った」とか「やっつけた」と言い、うまくいかないと「苦しい」とか「うしろめたい」とか言っている。そうした中で生きている。

でも世界のほとんどはそうではない部分が大多数を占めている。

毎年、繰り返し繰り返し咲くこと。毎年、同じ時期に海を渡って移動し、また別の季節にもどってくること。雪が溶け、草が生え、花がさき、実がなって枯れること。それを何百年、何千年、何万年と続けている。

何にも追われない。季節が巡り、それに合わせて生きているだけのこと。あるいは死ぬだけのこと。

そんなことを地球の自然は、何万年、何億年、何十億年のあいだ繰り返し続けている。

もちろん、今でも生命の歴史の中ではそれが当たり前だし、生命は地球上に大から小まで無数に存在する。

だからこそ、この今と言うときに出会えたこと、いきが通じ合うことのふしぎさを著者は感じている。そして、直接出会えないものでも、今同時に生きているふしぎさを感じている。

そのふしぎさは宇宙に私が、あなたが、目の前の花が生まれた偶然を寿ぐことに通じる。

しかし、それを寿ぐ喜びを知らないのは、せまい世界で、何かに追われているわれわれだけだ。我々の世界は、宇宙の中ではもちろん、地球の中でさえ、せまく短い。我々が「世界」と呼んでいる世界は、実は本当の世界の中のほんの一部で、ほんの短い時間だけなのに、そのことに気づかない。そして著者はそのことに気づいて、そのことに何度も驚き、宇宙と地球と生命の長さと広さに敬意を表明して、自然がもたらす偶然を寿いでいる。