なぜ人の視界は狭いのか

なぜだろう、といつも思うことがある。小説を読んでいて、主人公の行動についても同じように思うことがある。

なぜ人は自分の延長線上でしか、自分の人生を考えないのだろう。

今日はHBCのT田氏と琴似で酒を飲んだ。といっても、一軒だけだが。魚がうまかった。話題は主にアジアの人々、特にカンボジア、ラオス、ベトナム、タイの人々の暮らしの話。それぞれに国民性があり、それぞれにおかしいが、それぞれに楽しいという話だった。

私にとってはそれが、住む場所によって人生いろいろだなあ、と言う趣旨に聞こえた。

逆に言えば、住む場所が違えば、人生はいかようにも変わるということだ。特に政治に翻弄されて戦争に翻弄される国なら、なおさらかもしれない。それは一昨日の百瀬氏の話にも通じるモノだった。

そして帰ることになって、琴似駅に向かう途中、お兄さんと夜のお姉さん達がビラを配っていた。決して、風俗やパブや飲み屋でさえない店のシャッターの前で、もちろん、その上の階も、そうした店ではない。

でも確実になんらかの風俗系とかそれにちかいお店の人に見えた。

そのお店の前ではない場所でビラを配るということは、どれだけ奥まった場所のお店なのか、あるいはお客の少ない店なのかが、分かるとも言える。そして彼女らは、そうしたお店で働いている。

お姉さん達は寒い中、統一の長いスタジャンを着ているのだが、決して熱心には見えない。

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いったい、彼女たちはなにをしたいのか。なぜ薄野ではなく琴似なのか。なぜ白石とか南郷とか24条とかではなく、琴似なのか。

選ばれた理由も選んだ理由もなさそうで、そしてこの場所への思い入れもなくバイトというだけでビラを差し出す。

なぜここから出ないのか。

出られないのか。

そういうことではないと思う。

おそらく、それ以外の人生が想像できないからではないか。やめたい、と思ったときに初めて拡がるのだろう。

そしてそれは会社員も同じで、自分の進路の延長線上でしか人生を想像できない。

ビラを配る人生もあれば、花を配る人生、白装束に身を包んでアジアを歴訪する人生、音をつくって劇場でかなでる人生、ひたすら眠る人生もある。

なぜひとは自分の今ある人生以外の広がりを想像できないのか。

むしろ、想像することをあらかじめ拒否しているかのようだ。

私の場合はどうだろうか。

(ちなみに、近日中にじゃんけんをするかも、とT田さんに言ったら、軽くながされたが)。