高校生時代、中原中也詩集や萩原朔太郎詩集といった文庫の詩集以外に私が最初に買った詩集は、「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」だった。谷川俊太郎だ。当時私はよく家族の寝静まった台所でワインを飲んでいたことも関係していたかもしれない。
その後に詩の雑誌を買ったり、詩集を買ったりしたけど、今でもこの人の詩を読むのは好きだ。
なにより平易な言葉で書いてあるからだ。
現代詩手帖という雑誌があって、毎年12月と1月の号にはたくさんの詩人の詩が載っているが、たいていは難解な言葉で書いている。私にはそれが、むずかしく書かなくても済むことを、ことさらむずかしく書こうとしているスタイルに見えて、それが幅をきかせる世界なんてつまらないと思って徐々に詩から遠ざかってしまった。
言っておくが、今でも私は詩が好きだ。詩人になりたいとさえ、思っている。
それは何も書き言葉を使う必要はなく、演劇の台本を書いているときも、その演出をしているときも、そして今、絵で物語を作っているのも、ある意味詩のようなものだと思っているし、ひょっとするとスケッチをしているときすら、詩に近づこうとしているのかもしれない。
今朝の朝日新聞に(いしいひさいちが漫画を描いていない朝日新聞は、ジャイアンツの記事満載の読売を取るよりはましだという程度の気持ちで購読しているが)、谷川俊太郎のインタビューが載っていた。これほど読むところ満載のインタビューは初めてだ。谷川さんの言葉もいいし、それを理解できる取材記者の力量も素晴らしいのだろう。
詩には、2つの意味がある。詩作品そのものと、ポエジー、詩情を指す場合
現代詩は叙情より批評、具体より抽象、生活より思想を求めて難解になり、読者を失っていった。
詩は人々を結ぶものであるはずなのに、個性、自己表現を追求して、新しいことをやっているという自己満足が詩人を孤立させていった。
人間を宇宙内存在と社会内存在が重なっていると考えるとわかりやすい。人は宇宙内存在として生まれてきます。成長するにつれ、社会内存在として生きていかざるを得ない。散文は、その社会的存在の範囲内で機能するのに対し、詩は、宇宙内存在としてのあり方にふれようとする。
「詩は自己表現である」という思い込みは、一般的には非常に根強いし、教育界でも未だなくなっていない。
詩情は探すものではなく、突然襲われるようなものだと思うんです。
だから、これからの詩はむしろ、金銭に絶対換算されないぞってことを強みにしないとダメだ、みたいに開き直ってみたくなる。
どの行も捨てられない記事だった。