自分だけ見捨てられても大丈夫

どうも幼少の頃から私は「見捨てられる」ことに恐怖感を感じているようである。
目が覚めて親の姿が見えないだけで、泣いていた。かなり想像力が飛躍するのだ。「置いて行かれた」と。捨て残されることが怖いらしい。なぜかはわからない。確かに、記憶にない小さい頃は、親戚の家に泊まることが多かったらしい。その親戚のおばさんが「この子は小さい時、うちに泊まると夜中に起きてすぐ泣いていた」と言っていたのを思い出す。なんの時かは忘れたが、幼稚園より前の時だと思うが、父親の仕事に夜中ついていった。妹もいた。現場について私は眠ったらしい。で、起きたら車の中に父親がいなかった。私は「置いて行かれた」と泣いた。でも起きていた妹が「あほか」というさっぱりした口調で「そんなことあれへん。」と言ったのを思い出す。ああ、恥ずかしい。もし覚えていたら兄の恥ずかしい記憶は忘れて欲しい。

捨て残されたときの用心のためか、私は「痛い」「眠い」「腹が減った」にとても敏感だ。これらのどれかを感じると、それだけで生命の危機かというくらい不安になる。元横浜にいて、いまダイエーホークスにいる多村選手は業界では「痛みに弱い」と言われているらしいが、よくわかる。私がそうだから。
まあ、とにかく私のいろんな恐怖の根底には「見捨てられる」ことがあるようである。彼ら自身が生まれる前に死んでしまった兄、あるいは姉の恐怖が私に引き継がれたのだろうか。関係ないが、作家の伊集院静さんも見捨てられる夢を見ると、エッセーで読んだことがある。

話は変わるが、今日も大丸札幌店での「ジョン・バーニンガム」展を見に行った。明日までだが、明日は釧路に出張なので見られないのである。
さすがに日曜日だけあって人が多かった。やっぱりだった。
原画をよく見たら、失敗したところは紙を貼って描き直しているのがわかった。安心した。
でもペンだけで細部も明暗も色調も全部描ききっているページもあった。恐れ入った。
あたりまでだが、とても上手で、そしてこの人は人を寄せ付けない風貌なのに、絵がとても前向きなのである。これは意識してではなく、たぶんこの人の根っこの部分であろう。でもこれならまねできるのである。自分も、演劇の脚本を書き始めたときから言われてきたことだから。だから脚本も絵も、格好つけずに素直に自分の描きたいように描けば、私はそれだけである程度オリジナリティなのである。よかった。

全部見終わって、最後のショッピングコーナーで展覧会の中であまり触れられていなかった絵本を見つけた。「SIMP」。黒い犬の話である。それが弾丸のようになるのである。
「ま、いちおう」と開いてみたら(日本語版はなく洋書しかない)、読めないなりにストーリーはわかった。
捨てられた犬の本だ。
でもって、捨てられた犬が、不安と空腹と(そしてたぶん存在意義にも)悩まされたあげく、自分にしかできない居場所を見つけるという話だった。
買った。

美容室に行っている妻を待っている喫茶店で読んだ。

自分の短所ゆえに見捨てられることはある。
でも、自分にしかできないことはきっとあるのだ。

ほっとした。安心した。
おれだって、見捨てられても、きっと大丈夫だ。心配しなくていい。