これほど伏線を無駄遣いする脚本も珍しい

ここ最近で、「パイレーツオブカリビアン」の2と3を見ました。各方面で絶賛で、どれほどのものか知りたかったというのもありますし、たまたま借りてきたというのもあります。朝日新聞の土曜日版でしたか、村上隆氏が「1シーンに1年かけるほど」すごいと言っていたというのもあります。

確かにシーン作りはすごそうです。CGやら実写やらもう何が何だかです。でもまあある意味それはCGがあるからであって、後はテクニカルな問題なのでしょう。まあ、そんなことは演出上の問題であって、脚本的にはどうでもいいです。
脚本を書く人が見たら、おそらく皆同じ感想を言うと思います。「あの伏線は、どこに消えたのか?この伏線は使われなかったのか?」
例えば2の、「陸になる砂」。結局、瓶に心臓が入っているかどうかを見せなくするためのものでしかなかったです。3の銀貨。結局途中で、銀貨でなくてもいいことになってしまった。じゃあ冒頭の少年が処刑されるシーンはなんだったんでしょう。そしてそこで歌われる歌の意味は? などなど。
これだけ豊富に伏線がありながら、ほとんど使われないのもかなり珍しい。漫画ですが浦沢直樹氏の「20世紀少年」、あるいは「21世紀少年」が、先のことを考えずに伏線も張らず、結局補足的なエピソードを思い出したかのように後付け的に貧弱な伏線にしたてあげ、ラストまでしのいでしまったことを思えば、全くのちがいです。

そう考えれば、伏線など考えなくても、どうにでも物語は作れてしまうものなのかもしれません。最初はそれでもよいでしょう。でも自分のことを「話を作る人」と自負したいなら、少なくとも一抹のエピソードにも、きちんと意味を持たせてあげたいものです。あってもなくてもどっちでもいい小道具、なくなっても話が進む台詞などはできればない方が「美しい」物語ではあります。また伏線が少なすぎて、本来その意図がなかったエピソードを伏線に仕立て上げる「ずるさ」も、できれば避けた方が「美しい」物語ではあります。
ただ問題は、その「美しさ」にこだわっても、演出家、監督、役者がそれを見いだしてくれなかったら何にもならないですし、また逆にその美しさにこだわったところで観客がいっそう喜んでくるとは限らないのです。そのあたりが脚本家の悲しいところかもしれません。