舞台脚本の書き方 初歩の初歩

「脚本の書き方」というエントリーをこれまで何度も書いたが、初めて書こうかという人に向けて、台本の書き方、舞台脚本の書き方、というか、脚本を書く方法を書いておこう。

  1. 場所は3つ。小説とか映画と違って、舞台は細かく場所を変えることができない。3分ごとに暗転して「別の場所」にすると客が疲れる。だから3〜4つまで。その不自由さがある。だからストーリーは3つの場所だけですすめる。例えば通うサスペンスみたいなものだと1殺人現場、2取調室、3崖の上、みたいなもんである。全部この中で人物がやってきたり退場したりして進んでいく
  2. 登場人物は4〜6人。全部の人物に、それぞれの「実現したいこと」を設定してあげると、役者さんが演じやすい。少なすぎると話が進めにくい、多すぎるとキャラクターが設定しにくい、ということもある。例えば人物1は殺された友人の犯人を突き止めたい人、人物2は人物1のことが好きで、彼の役に立ち、できればつきあいたい人、人物3は人物1の友人を殺し、また人物1のことが嫌いで可能なら彼も殺したいと思っている人、人物4は人物2のことが好きでできればつきあいたいが思いは心に秘め、人物4を犯人と思っていて彼を自首させたいと思っている人(刑事)、とか。それぞれの「実現したいこと」が、相互に関係していると話を作りやすい
  3. 観客を感動させようとしない。自分が面白いと思うことに徹する。ほめられたい人に喜ばれるものをつくる。感動はつくることができない。なぜなら受け止める人の心の中でつくられるものだから。またそういう下心があると話が「ありがち」なものに着地する。つまりどこかで見たことのあるもののコピーになる。あなたはそんなものをつくりたくて「台本を書きたい」と思ったのか? 好きな人にほめられたい、自分が面白いと思うことを他の人にも知ってほしい、そういう動機のはず。それに徹しすぎるくらい徹すること
  4. 何度も書き直すのをいとわない。とりあえずいったん出来上がったものは、うれしいし、それですませたい。でも他の人に読んでもらおう。できればあなたがほめてもらいたい相手に読んでもらおう。その感想通りにつくり直すのではない。自分が「面白い」と思うものをまだちゃんと自分でも気づいていないし、もちろんそれを表現できていないからだ。2回3回書き直す労力を面倒だと思っては、本当に「何かをつくる」ことはできない。簡単にできるなら、誰でもできるのである。そして書き直すときに「素晴らしい」と思っていたラストシーンは、最初でさっさと使ってしまうか、捨ててしまうのが最もよい。それくらいダイナミックにかえてこそ、よいものに近づく。そしてあなたが本当に「面白い」と思うものに、あなた自身が気づく。だから脚本をつくるのは素晴らしい。最初の構想を実現するためではなく、自分さえ気づかなかった面白さに出会う。がんばれ

構成で考える:なぜスターウォーズ「ジェダイの逆襲」はイマイチなのか

私はスターウォーズシリーズは大好きだが、かなり脚本的にはアラが目立つシリーズでもある。
(それを超えてファンなのだから、いかにスターウォーズには脚本以外の魅力が多いかということでもある)
先の「ボーン・アルティメイタム」と同様に構成を整理すると、これは2場構成。

  1. ジャバ・ザ・ハットの館
  2. 森の衛星(名前忘れた)

だが2は実質的に開戦前後で分けられるので、

  1. ジャバ・ザ・ハットの館
  2. 森の衛星・開戦前
  3. 同・開戦後

の3場構成になる。
主人公の一人はルーク・スカイウォーカーで、またハン・ソロやレイア姫も主人公の1人に数えられるが、この物語の軸をつくるのはほかに敵方の皇帝と、ダース・ベイダーもあげられる。それぞれの軸はこういう目的を持つ。

  • ルーク:帝国の打倒。父の改心
  • ハン:帝国の打倒。レイアへの愛
  • レイア:帝国の打倒。ハンへの愛
  • 皇帝:民主化勢力の壊滅。ルークを暗黒側に取り込む
  • ダース・ベイダー:息子への愛情。帝国維持への葛藤

問題は敵方の2名が、1場に全く関係のないこと。
仮に1場を本筋が始まる前のプロローグととらえると考えるにしても、占有時間が長すぎる。当たり前だが、物語を構成するに当たって、本筋と外れた部分に関しては、時間は短くするべきなのである。
どうしてもこれだけの時間が必要なら、1の間に(関係なくてもよいから)皇帝とベイダーとの葛藤や、ベイダーの息子への思いを挿入する必要がある。後者が可能なら、ルークのピンチの時などに挟むとよい。少なくとも観客は勝手に関連を想像してくれる。

映画評論家であれば、きっと「スターウォーズの脚本はいい加減だ」というと思う。実際、構成的にはこのような大きな部分でさえ失点が多い。でも小さな伏線もほとんど無駄にしないし、ストーリーを超えて引きつける魅力がある。ストーリーの構成など考えなくても、CG、カットの絶妙さ(映画は演劇よりも遙かに自由度が大きい)、役者の魅力(?)など、観客に喜ばれる方法を監督が知っていれば、映画は成功するのだ。
ある意味、演劇だってラストの大がかりなスペクトラムだけで観客を納得させることもある。脚本家は偉大な演出家の前には無力。スターウォーズはそのことを教えてくれる。

ストーリーの構造:ボーン・アルティメイタム

DVDで「ボーン・アルティメイタム」を見た。その構成を整理してみる。
この話は3場構成。

  1. ロンドン
  2. マドリード
  3. ニューヨーク

これを縦に貫く主な軸は3本。

  1. 主人公ボーンの「自分の過去を思い出す」こと
  2. CIA部長(だったか?)パメラの「隠蔽された情報を知ること」
  3. その上司(名前忘れた)の「情報を隠蔽し続けること」

そのほかニッキーとか新聞記者とか登場人物はあるが、全場に出てこないので、上記3本の軸をつくるためのエピソードと考えてよい。
これら縦横3つを表にしてそれぞれを埋めていけば、話の構成は完成するが、面倒なのでここではジェイソンボーンの軸だけ。
1ロンドン

  • ボーンの目的:新聞記者から情報源と作戦の内容を知ること
  • 場のスタート:新聞記者への接触
  • 場のゴール:新聞記者の取材メモを通じてマドリード支局への手がかりを得る
  • ゴールへの過程:新聞記者をCIAから保護する
  • ※ヤマ場は繁華街で、携帯電話を通じて新聞記者をCIAから守ること

2マドリード

  • ボーンの目的:マドリード支局長に接触して自分の素性の手がかりを得る
  • 場のスタート:支局に潜入
  • 場のゴール:ニッキーを暗殺者から守る。研究所への手がかりを得る
  • ゴールへの過程:ニッキーを巻き込み、暗殺者を殺す
  • ※ヤマ場はモロッコの町並みを使った暗殺者との格闘。ニッキーは元恋人と判明し、協力者になる

3ニューヨーク

  • ボーンの目的:研究所で自分の素性を知る
  • 場のスタート:空港でパメラから接触
  • 場のゴール:素性を知り、さらなる逃亡へ
  • ゴールへの過程:パメラの協力を得て極秘資料を入手し、カーチェイスの末、研究所で教授と対峙
  • ※ヤマ場は資料入手のトリックとカーチェイス。殺人を犯すむなしさを表明することで、「殺人マシーン」から人間性の復活を印象づけ、3部作を通じた結末の1つとする

幕ごとのメリハリ、あるいは共通項

ストーリーのアイデアは出たけど、それ以降進まない。あるいは、考えたストーリーが自分でも単調だと感じる。そんなことは誰でもあります。
演劇の脚本はたいてい3幕か4幕で構成されますが、それぞれに何らかの制約をつけることで、メリハリもたらすのも、観客の興味を維持したり、自分の脚本を作る動機を維持する上で有効な方法です。
例えば話が男女の恋愛ものだとして、1幕は二人とも同時に舞台に出ている時間は長いけれど、会話はほかのものとする。2幕はそれぞれ一瞬しか登場しないけど、一言ずつ言葉を交わす、等。またあるいは全ての幕で二人は登場するが、会話は最後の幕でしかしない、とか。
逆に、全幕共通の制約を設けることでも想像力を刺激できます。例えば、全ての幕に何か「黒と白のチェック模様」のアイテムを使う、とか。実はこれはジム・ジャームッシュの「cofee & cigarettes」のアイデアです。
書かなきゃいけないけど何も思い浮かばないときは、ストーリーからだけでなく、設定のメリハリや共通項から考えるのも、良い方法です。

押してだめなら割ってみよう

依頼された脚本、上演は10月に決定しております。それに伴い、なんとか3月、だめなら4月中にはあげてくれという連絡が、プロデューサーから来ました。もっともです。
今まで先方の条件変更を理由にして、具体的なアクションを先延ばしにしてきました。
でもそのおかげで、「おれって、いま何を書きたいんかなあ」ということを徐々に考え始めました。いや、本とはもっと最初に考えるべきなのですが、「依頼され」てその条件に沿うことばかりを考えていたので、脳みそを自分仕様に解放するのにずいぶん時間がかかったといえばよいでしょうか。この辺、もっと上手だったら商売できたのかもしれませんが。
とにかく、「自分が面白いもの」を探しているうちにますます混乱してきました。
こういうときはついつい「小商売」に手を出してしまいがちです。「何かもうけ口はないかな」と考えている小さなビジネスマンが陥る罠のようなもので、自分が今までやってきたことの延長線上で、ちょっと「あ、いいかも」と思ったことを「いけそう」と思いこんで追いかけてしまうことですが(造語です)、台本でも同じで、「あ、いけそうかも」と思った小さいネタを追いかけてしまいがちです。もちろんたいてい、最終的に納得いくものにはならず、仮に将来「自分大全集」なるものを発行するようなことがあっても、真っ先に外してしまうような作品になります。
こういうときには、一回、これまで思いついたことを全部破棄してしまうのが近道です。
…。
というわけで、今手元には何もありません。
いや、光明は見えています。
一気に大感動に持ち込む欲を捨てたこと。そして、「大切にしたいな」と思う小さなネタを有機的につなげること。だれでもそうでしょうが、一気に大きなことをつくるより、それらを分割して組み合わせた方が考えるのは楽です。
脚本でいえば、90分なり120分を1つの物語で何とかしようとするのはいったん捨てて、3分割か4分割にして1つ一つを少人数の登場人物でつくり、あわよくば全体を通して1つの物語を構成する方法です。まあ簡単にいえば、「押してだめなら割ってみろ」ということです。たぶんビジネスの世界でも同じと思いますが、でかすぎると何をしていいのかわからなくなるので、分割してそれぞれに目標を決めるわけです。目標というのは物語のゴールです。最終的なテーマじゃなくても、そのパートでの最後の台詞、あるいは誰を見せる、でもいいのです。
え、まだ迷いがある? ジム・ジャームッシュをご覧なさい。「ナイトオンザプラネット」しかり、「コーヒーアンドシガレット」しかり。
どうです、台本を考えるのが楽しくなってきたでしょう?

上演場所によって脚本の構成は変わる

現在書いている脚本が、主催者側の都合で上演場所が「小学校の体育館」→「教室」→「小劇場」と二転三転したことは以前書きましたが、これによって脚本は大きく変わります。
特に体育館、教室、というのはそれ以外のものに見せるのは本当に難しいからです。例えば教室は建物である校舎に入ってくることからすでに客はそこが「学校の教室」であることを強く意識し、教室以外の何者でもない特徴(広さ、天井の低さ、窓の位置、黒板など)の部屋に入ってきます。
当然、脚本は「教室」で展開される物語が求められます。いや、もちろん舞台美術や装置を徹底的に作り込めば、教室以外の場所に見せることはできますが、それでは教室で上演する意味がなくなってしまいます。また中途半端な美術では客に「ここは教室に見えるけど、物語上は違うんです」というお約束を強いるしかありません。リアリティも何もなくなります。
となると、物語が始まってから終わるまでそこを「教室」として進行させなければいけません。仮に夢のシーンやら回想シーンは、ほんのわずか可能かもしれませんが、全3幕あったとして、第2幕全部を教室以外の場所に設定することはできません。
つまり脚本の構成として、「場」は変えられないということです。おのずと物語の展開は単調になるおそれがあり、構成時点でそれを打ち破る大きな波をつくるか、あるいはそれを生かして淡々とした日常を見せるか、割り切りが必要です。

ところがこれが劇場で上演となると、話は変わります。
小劇場はそれぞれ個性があるとはいえ、やはり劇場であることには変わりありません。幕ごとはもちろん、シーンごとに「場」を変えてもよいのです。前シーンは室内だったのが、次のシーンでは海辺など、思い切った場の変更も可能なので、物語の構成も自由です。
とはいえこまめに変えると舞台美術の転換も大変なので、全3幕なら、1と3は同じ場所、2はそれらとがらりと違う場所にすることをおすすめします。さらに可能なら、1と3は家の中などやや閉鎖的な場所、2は広い屋外など開放的な場所に設定すると、見る方の気分も大きく変わって退屈も緩和されてよいと思います。

これほど伏線を無駄遣いする脚本も珍しい

ここ最近で、「パイレーツオブカリビアン」の2と3を見ました。各方面で絶賛で、どれほどのものか知りたかったというのもありますし、たまたま借りてきたというのもあります。朝日新聞の土曜日版でしたか、村上隆氏が「1シーンに1年かけるほど」すごいと言っていたというのもあります。

確かにシーン作りはすごそうです。CGやら実写やらもう何が何だかです。でもまあある意味それはCGがあるからであって、後はテクニカルな問題なのでしょう。まあ、そんなことは演出上の問題であって、脚本的にはどうでもいいです。
脚本を書く人が見たら、おそらく皆同じ感想を言うと思います。「あの伏線は、どこに消えたのか?この伏線は使われなかったのか?」
例えば2の、「陸になる砂」。結局、瓶に心臓が入っているかどうかを見せなくするためのものでしかなかったです。3の銀貨。結局途中で、銀貨でなくてもいいことになってしまった。じゃあ冒頭の少年が処刑されるシーンはなんだったんでしょう。そしてそこで歌われる歌の意味は? などなど。
これだけ豊富に伏線がありながら、ほとんど使われないのもかなり珍しい。漫画ですが浦沢直樹氏の「20世紀少年」、あるいは「21世紀少年」が、先のことを考えずに伏線も張らず、結局補足的なエピソードを思い出したかのように後付け的に貧弱な伏線にしたてあげ、ラストまでしのいでしまったことを思えば、全くのちがいです。

そう考えれば、伏線など考えなくても、どうにでも物語は作れてしまうものなのかもしれません。最初はそれでもよいでしょう。でも自分のことを「話を作る人」と自負したいなら、少なくとも一抹のエピソードにも、きちんと意味を持たせてあげたいものです。あってもなくてもどっちでもいい小道具、なくなっても話が進む台詞などはできればない方が「美しい」物語ではあります。また伏線が少なすぎて、本来その意図がなかったエピソードを伏線に仕立て上げる「ずるさ」も、できれば避けた方が「美しい」物語ではあります。
ただ問題は、その「美しさ」にこだわっても、演出家、監督、役者がそれを見いだしてくれなかったら何にもならないですし、また逆にその美しさにこだわったところで観客がいっそう喜んでくるとは限らないのです。そのあたりが脚本家の悲しいところかもしれません。