看板2題

今日は少しなんでもない話題を。
事実は小説よりも奇なり、ということわざがありますが、ちまたのお店の看板は時々下手な虚構よりも想像力を刺激します。

昨日そんな看板を2つ見つけました。1つは
「鉄板焼き わたあめ」。
わたあめという名の鉄板焼きやサンなのでしょうか、それとも鉄板で焼いた綿アメを出すのでしょうか。すごく想像力を刺激してくれます。

もう1つ。
「炭火焼き 生つくね」
焼いてんのかナマなんか、どっちやねん!
…いろんなお店がありますね。事実は小説よりも奇なり、でした。

敬愛に経済合理性を

「命は大切だ」といろんな人が百万回言ったところで、あるいはその具体例を何万例も見せたところで、昨日言ったように保健所に送られる犬や猫の数は減らず、イジメの数も減らず、戦争で不合理に殺される人の数も、残念ながらすごく減っているとは言えません。
果たして、命は大切と言うことを訴えることが有効なのか。
そのことをもう少し根本的に考えてもいいのではないかと考え始めています。
私の私の家族の命を大切なように、私の敵になる人間も自分の家族が大切と思うことでしょう。敵か味方かになるかはすごく些細な動機で、それをあとで理屈付けするのが宗教やら人種やらお金だったりします。そしていったんそれに火がついたら、つまり憎しみの連鎖が始まったら、そのレートはどんどん上がる一方になります。
つまり発端となる愛が憎しみを増大させていくだけです。さらに憎しみには経済合理性があります。憎しみを解消するために武器を使い、貯蓄をはき出し、防御を固める。当然あいても同じように、お金をそう言うものに使うことでしょう。つまり武器関係の経済合理性はとても高い。だからこそ、憎しみはいったん火がついたらそれに薪をくべ続ける人間が存在する、と思います。
すなわち、戦争をなくすには愛に経済合理性を付加することがポイントなのではないでしょうか。家族の命から動物の命まで、全ての命への敬愛が経済合理性を伴えば、その増大に薪をくべ続ける人間が現れるはずです。たしかに、お金儲けとは縁がないからこそ、愛は無償で価値があるのかもしれません。しかし憎しみにだけ価値があるという原理に、何らかの終止符を打つ方法は考えなければなりません。
そう思いませんか?

現在の作業、そして犬猫やらイジメやら

Ske019現在のsilent-storyですが、Turtle’s Walking(カメの散歩)を改造中です。とにかく、わかりやすく、そして当然おもしろいものを。「おもしろい」にはストーリーとしてのそれも、メディアとしてのそれも含みます。現在ラフスケッチですが、よくなる感触があります。ぜひ、お楽しみに。

私がsilent-storyにこだわるのは、これによって「楽しい」と思う気持ちを世界中の人に伝えたいからです。しかしこれが本当に有効なのかどうかはわかりません。実際、これまでいろんな人がそのような試みをしているのに、保健所に連れて行かれて命を絶たれる犬や猫、学校でイジメに遭う子供、兵士でもないのに戦争で理不尽に殺される人の数は減りません。私がやっているのはむなしい作業なのかもしれません。でも声高に主張したりアクションを起こしたりするより、私の持っている能力を考えれば、私の場合はこれが一番有効な方法だと思っています。あなたの場合は、どんな方法ですか?

脚本は誰のものか:再び

今、依頼された脚本を書いています。やはり難しい。
難しい要素はたくさんありますが、その最も大きなものとして、
「脚本はセリフではなく、情景を書くもの」なのに、情景は演出家によって全て変えられてしまうと言うことです。
脚本家の失敗の要素として、セリフだけで構成することがあげられます。セリフは舞台の一要素にもかかわらず、セリフを書いているとそれが別のセリフを呼び、いつの間にか生身の人間がたっていることを忘れたものになることがあります。少しくらいなら、それもよいでしょう。役者さんにとってもよい刺激になると思います。でもそれだけでは、脚本は成立しません。音符以外にも、楽譜にかかれる要素がたくさんあるのと一緒です。だから情景会ってこそのセリフで、あくまでせりふはト書きに従属するものと考えた方がよいでしょう。
でもねえ、指揮者の仕事が楽譜の再現ではないのと同じように、演出家の仕事は脚本の再現ではありません。だからいくら脚本家が「これはすごい、すてきな情景だ!」と思っても、演出家はその通りにはしません。
まだ僕の中でこのへんの問題は解決しないようです。
情景の書き込みと、セリフの書き込みにやや感じるむなしさをどう乗り越えるべきか、迷います。

こぼれダネはすごい

Img_4752少し前の写真になりますが、10月はじめくらいだったでしょうか。
こぼれダネから伸びたキク科の花が一輪、コンクリートの隙間から咲いていました。
植物ってすげえ。
人はなくても花は咲く。
来年も咲いて欲しいものです。

琴似の散歩


札幌市西区の琴似に住んでいます。
それでまあ、散歩も琴似近辺です。最近のお気に入りは琴似川沿いを歩いてツタヤというのが定番だったんですが、昨日は琴似神社から南側が自分の未開拓ゾーンであることに気がついて、散歩をしてみました。(琴似という地名さえ不明な方には、何を言っているのかさっぱりだと思いますが)
その辺を一連のアルバムにしてみたので、サイドバーから「琴似散歩」をクリックしてみてください。

愛こそが戦争の始まりなのか

太田光と中沢新一の「憲法9条を世界遺産に」を読みました。1週間前のことですが。
賛同したいところとクエスチョンマークの付くところとがありましたが、読む中で考えたのが、戦争は愛によって始まる、ということでした。愛するものを殺されたら、その憎しみでその相手を殺すでしょうから、その延長線上にある戦争をどう抑止するか、ということです。「憎しみの連鎖」を断ち切ることは浦沢直樹さんの「プルゥートー」でも言われていることですが、これをどう実践するかはかなり難しいところです。
また太田さんが「憲法9条を世界遺産に」の中で9条を世界遺産にという一方で、家族を殺されたら敵討ちをする、というくだりも印象的。正直、私もそうするでしょう。


愛するものがあるからこそ、戦争も始まるという論理ですが、はて。
殺人の連鎖ならわかります。でも現代の「戦争」は、殺人の連鎖の延長線にあるのでしょうか。相互殺人の連鎖は、どこまで行っても殺される人数は常に1人ずつです。100万人の人間を殺すなら、互いに50万回の憎しみが必要です。おわかりのように、1人の殺人を戦争の導火線にするのは困難です。
仮に、一度に1000人の人間を殺されたとして、敵の1000人を殺すのに、十分な憎しみを持った人間を調達することは可能でしょうか。おそらくそれも困難でしょう。つまり互いの憎しみの交換と戦争は道義ではない、と言うのが私の考えです。
でも現実には数人の殺人から戦争に発展する例があります。
ということは、どこかで、誰かが論理のすり替えを行っているのでしょう。
だれが?なんのために?
戦争を起こすことで有益な状態を実現したい人間が、自分の主張の実現のために。
愛は殺人の動機にはなっても、大量殺人である戦争のきっかけではない。
戦場で、自分が対峙する敵の兵士が、自分の肉親はおろか関係者を殺したわけでもないのに、殺していいとする論理自体が、戦争の矛盾を示しているのではないでしょうか。誰かが、論理をすり替えています。
誰が? 戦争によって有益になる誰かです。銃を持つ、あるいは爆弾のボタンを押すあなたの憎しみの解消がそうするのではありません。