作品的なものを描くだけだと自分の空想に偏りがちなので、実物をスケッチすることはとても大事です。でも冬は屋外でスケッチするのは寒くてとても大変、というか筆先が凍るので、拾ったものを家に持ち帰ってスケッチすることが多いです。これが結構楽しくて。
ものがある、ということそのものを描けたらいいなあといつも思っています。その意味では拾い物のスケッチは僕にとってこれ以上ない絵です。なかなかうまく行かないですけど。上のスケッチもその理想とはちょっとずれています。「こうあったらもっといいなあ」という下心が出てますね。もっと修行しないといけません。
ところで今日は1月9日ですが、今更ながら今年の目標を公表します。というか、昨年末くらいからなんとなく考えていた、自分のこれからのあり方ですが。
それは、「世間の叔父さん」になることです。
はあ? ですね。
説明します。
たぶんかつてどこの親戚にも「この人何やってんだろう」という叔父さん、いたと思うんです。所帯を持たないで、場合によっては定職を持たず、親兄弟からは「ちゃんとしろ」と言われるけど、普通の生活では届かないような知識や経験を甥や姪に話してくれる人。大人からは距離を置かれるけど、子供には人気のある人。
寅さんはその代表的な例かもしれません。ちょっとバリエーションは違いますが、僕にもいました。いや、定職には着いていましたが、神父さんでした。小学生の僕を梅田の繁華街にある超巨大な本屋さん「紀伊国屋」に連れて行ってくれたり、宇宙の面白い本をくれたりしました。その他にも面白い話を色々してくれた記憶があります。(いちおう注釈しておくと、その叔父さんは親兄弟からも一目置かれていましたが)
一昨年の11月に亡くなりました。
それはともかくとして、今はそういう叔父さんは社会から減ったのではないでしょうか。もしいたとしても親戚からは疎まれたり、引きこもりを余儀なくされたり、社会の中で居場所をなくしているのではないでしょうか。
ところで僕の仕事は花の絵を描くことです。こういう仕事って、今の社会から見ると普通ではありません。多分僕だけではなくて、ミュージシャンを目指す人も、漫才師を目指す人も同じだと思います。「まっとうな」仕事につかず、平日でもフラフラして、普通の会社勤めの人からは心の底では「ダメなやつ」と思われがちな。
でもそういう人は必要だと思うのです。例えば日本が社会主義の国だとしましょう。そこでは当然「労働者こそが第一」、「目的のためにがんばる」「みんながみんなのために」という、目的至上主義的な価値観が良しとされます。
そういう社会ではおそらく「労働は尊い」といった趣旨の歌だけがよしとされるでしょう。でも、そういう社会でも恋愛はありますし、生きる上での喜びも悲しみもあります。でもその社会で失恋した時に歌うべき歌なかったら、どうしたらいいのでしょう。あるいは空を見上げて雲が動いていることを知った驚きは何で表現したら良いのでしょう。夕焼けってすごいなあと思ったら、何色で伝えたらいいのでしょう。
とはいえ、ひるがえってみるとそもそも社会って「合理的」で「人の役に立って」「正しくて」「ムダがない」ことばかりがいいとされている気がします。それは社会主義とはちがいますが、価値の軸が1本、あるいは数本しかないという意味では同じだと思います。ちょっと息苦しい。
そういう時に大事なのは「叔父さん」だと思うのです。日々非生産的な仕事をして、無駄なことをいい、子供に教えなくてもいいことを教え、人が働いている時にぶらぶら森を歩く人。
失恋したときには失恋の歌を歌い、動いている雲を追いかけ、夕焼けの色を再現するために悩みながら絵の具を使う、そういう人。いわば世間や社会の中の「叔父さん」。
そういう人になれたらなあと、このごろ思います。
ではまた明日(たぶん)
うはぁ、読み応えがありました。
素敵な目標だと思いました。
そして、もう半分以上は叶っているんじゃないかしらとも思いました(笑)
なわた様。ありがとうございます。ちょっと酔っていて勢いに乗ってしまいましたが(笑)、堂々と「世間の叔父さん」をやろうと思います。
こんばんは。藤川先生のブログ、毎日楽しみにしています。ガーデナーの心に響く文章。あー、ファンでよかった(*^^*)
拾いもののツルアジサイのスケッチ、思いっきりツボです。この茶々っとした萼の感じ。大好き!
shukuさん、あけましておめでとうございます。いつも楽しみにしてくれてうれしいです。ありがとうございます。
ツルアジサイのスケッチ、気に入ってくれて嬉しいです。今日も新しいのをアップします。
文章も最近のびのび書けるようになりました。今後もお楽しみに!