参加=体験できる物語をつくろう

本当は福岡伸一さんの本を買いにいったのだが、なぜかこっちを手に取ってしまった。だって奈良時代の色が結構サイケだったから。
わびとかさびとかというのが日本の文化であるというのは、今の時代の人が色あせた文化財を見て思うこと。実際、明日香村を回ったら、飛鳥時代の石像を見て「わび」を感じる人はいるまい。むしろ粗野ながらものびのびして楽しそうなエネルギーを感じることだろう。
そういった意味で、いつから日本の文化が「わび」たのか気になっていた。「へうげもの」とかを読んだ程度の感想で申し訳ないが、それまで「わび」も「さび」も価値観として認められていなかったからこそ、利休のなすべき仕事があったのではなかろうか。

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9月18日猫とカズオイシグロ

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なぜこんなに力を抜いて眠れるのか。すごいね、猫って。
カズオイシグロ「私を離さないで」を読む。SFなので、設定が納得できない人はつまらないかもしれないが、この人はすごい人だ。
山に行ったせいで所持金ゼロ。
最近格安パソコンがはやっているが、まさに「イノベーションのジレンマ」そのもの。
次は携帯電話か、ゲームなど入れて多機能になったiPodか、親切機能てんこもりのデジタルカメラだろう。

100年の難問、100日のストーリー

この「100年の難問はなぜ解けたのか」という本は、ポアンカレ予想を解いたペレルマン博士や数学者のエピソード番組のメイキングである。数学は苦手だったが、ポアンカレ予想とか、フェルマーの最終定理とか、数学の本は私は好きだ。物語を作ることは、ある意味、数学の難問を解くことと似ている。

  • 自分で物語を作る=自分で研究すべき問題を選ぶ
  • 設定を自分でつくる=解決方法の入り口を自分で考える
  • 結末ができるかどうかわからない=解けるかどうかわからない
  • 新しいシーンを思いつくとわくわくする=新しいヒントが思い浮かぶとわくわくする
  • 思うような展開に持っていけないとイライラする=思うように解決できないとイライラする

違うのは、物語の場合、設定も解決方法も、続けるかどうかも全部自分次第という点だ。私も小さな話1つつくるにあたっても、できそうでできなくて放置したままのアイデアがいくつかある。
物語なら「しょうがない、いつかいつか使えるかもしれないからとっておこう」と自分を慰めることができるが、数学だったら名誉とか自尊心とかあるから、そうはいかないのだろう。

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そりは宇宙…

「死ぬ前に何でもいいから望みを叶えてやる」と言われたら、まず最初にお願いしたいのは、「寿命を延ばしてほしい」だが、それはだめと言われたら、「宇宙の果ての向こうを見たい」である。
だいたい、宇宙は謎が多すぎる。そしてでかすぎる。そもそも地球それ自体も、我々の身体感覚からすればかなりでかい。不景気だ、雇用格差だ、アメリカ大統領選挙だ、グルジアで戦争だ、北京オリンピックだとか言っても、所詮地球の面積の3割しかない陸の上のことなのである。で、地球から月までの距離は地球の直径の30個分あって(地球儀を30個分並べてことがありますか?やったら驚きますよ。月ってなんでこんなに遠いのに地球の周りを回ってんの?って。)、だいたい光が太陽から地球に届くのに8分19秒かかって、とかなんとかいっても、冥王星までは何時間もかかって、一番近い恒星までは3年ちょいかかるのです。

すげー。でもって(中略)銀河系はありふれた銀河の1つで、アンドロメダ大星雲とかと30個くらいの銀河でグループを作って「局部銀河群」と呼ばれてい
て、こんな銀河群が集まって銀河集団をつくっていて、またそれが集まって超銀河集団をつくっていて、これらはどうやら泡の膜みたいなところに張り付くよう
に散在していて、そいでもって全部の半径だったか直径が180億光年あるらしい。そんなことが子供向けにこの加古里子さんが描いた本には書かれてあって、
これを今は神父をやっているおじさんが買ってくれたのはすでに私が宇宙にかなり興味を持っていた頃だが、それにしてもこの本は宇宙の大きさを絵で子供にも
リアルにわからせてくれる素晴らしい本だった。おかげで自分の意思を決定する時や、自分の人生を柄にもなく考えるとき、あるいは他の人の人生を考える時に
も必ず宇宙のことが頭に思い浮かぶ。だから狭い範囲での「社会のために」とか「仕事に生きる」という人は真っ先に鼻で笑ってしまう。自分で目に見える範囲
のことを人は「社会」と言いたくなってしまうが、実際にはその社会はかなり狭い範囲で、またどんなに広い社会も宇宙的には狭すぎるのである。
かといって虚無的になっては意味がないのだが、私はこのごろ、この広すぎる宇宙になんだか偶然に生まれた自分と、これまた偶然に生まれたほかの人々の人
生、そしてこれまた偶然にここにある社会と地球について考えることが多い。そういった意味で、今の仕事は偶然にもありがたい役割を担っている。会社のため
でなく、社会に向けて、これは意味のあることかな、と思えるようになってきた。そういう意味で、会社に向かってではなく、社会に向けてやれることがあるの
ならやってみたいと思って、そのことと自分のために今の仕事をしようかと思い始めている。なんちて。そりは宇宙だからね。

なんじゃもんじゃ博士

仕事の方が一段落ついたと思ったら、また問題発生である。どうやら問題というものはお金よりたちが悪い。お金は寂しがりやなのでお金のあるところに集まるが、問題というものは問題があるとどんどんそこに集まってくるものでもあるが、問題がなくても発生するからだ。幼少を海沿いの小さな街で過ごしたカメラマンに聞くと、カモメというものはカラスよりたちが悪いらしい。カラスはゴミをあさるが全部自力で、カモメは人が魚を水揚げするところを狙って卑しく集まってくるからである。そういった意味では問題とカモメは似ている。
何しろ問題が発生してすぐにてのうちようもないときには、ちょっと「うふふ」と言える本を読むのがいい。でも決して「うふふ」のあとに「自分もこうならなければ」とか「もっとこうだったらいいのに」とか思ってしまうような高尚な人が出てくるのはだめである。そういった意味で「ku:nel」とか「リンカラン」とか「天然生活」は危険である。「こんな日差しの中で仲良くのんびり暮らせたらいいのに」ばっかりだからである。だからこういう時は「なんじゃもんじゃ博士」(長新太)がよいと思う。オリンピックで「日の丸が背中に張り付いて」困っている選手にもお勧めしたい。

期待して買ってもいけない。ヒーリングミュージックではないのである。ほったらかしながら読むのがよい。しかしオリンピックの期待されている選手は大変だ。だいたいオリンピックの時だけ選手のことを思い出す人たちが相手だ。しかも呼び捨てで名前を呼ばれる。いつからあんたらはオレの同級生になったんや。と言いたいことだろうと思う。感動をオレに求めるな、感動はあんたの足下にある。といいたいことだろう。きっとカラスもカモメに言っている。えさはあんたの足下にある、それをとって食えと。

コーチャンフォー、スタバ、楽しむとは

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昨日の美術館の帰りのバスで。
午後は自転車でコーチャンフォー新川店へ。発寒琴似川沿いに走って行き20分、帰り30分。風向きの問題。道沿いに家庭菜園の畑が多い。菜園の表情もそれぞれ違ってそれを見るのも面白い。
コーチャンフォー新川店は大丸セントラルほどではないが、画材が多くて(winzor&newton8色ビジューボックスまである)面白い。いろんな絵本を立ち読みできるのも面白く、中でも安野光雅さんの「おおきなものがすきなおうさま」(だったか?)はオチがグッと来た。
本当はカレル・チャペックの「園芸家12カ月」(中公文庫)を買いに行ったのだが(人にあげたり猫におしっこをかけられたりしてすでに何冊目になるか不明)、在庫検索機には表示されるのに本棚にはなく、ふと目の前にあったアーサー・ビナードさんのエッセー「空から来た魚」を買う。
帰りにTSUTAYAに寄る。スタバでコーヒー。
女子高生3人組がいて、中の一人が「いつもくっついてきて困る」級友について相談というか文句をたれていた。なんで人生っていつも面倒なことがあるのかね。
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TSUTAYAにも「園芸家12カ月」はなかったので、その足でくすみ書房へ。ここには中公文庫はほぼ全点ある(らしい)。実際、「園芸家12カ月」はあった。
アーサー・ビナードの本を読む。なんというか、人生を楽しんでいる人。それに比べて最近おれって考え方も想像力も窮屈かもしれん。
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想像力と創造力に歯止めをかけているような気がする。(仕事のせいか?)ビナードさんを見習おう。それで翌朝は地面に散った梅の花びらを描こうと思ったのだが、起きたら風で飛ばされていた。仕方なくオーブリエチアでお茶を濁す。
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私のことはさておき、昨日の女子高生にもビナードさんのように人生を楽しんでもらいたい。

ラナンキュラス 千原ジュニア「3月30日」

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ラナンキュラスとチューリップ。ラナンキュラスの幾重にも重なった花びらが好きなのだが、北海道では切り花でしか見られない。いけてから日がたっているので、チューリップ共々開き気味なのはご愛敬。でもボディコン(死語)のように造形的にまとまったものより、少し「着崩れた」姿の方が
面白い。あんまり崩れると商店街のスナックのママみたいになってしまうから要注意。そういう店って必ずカラオケがあって、常連客が歌っている。「♪外は冬の雨まだやーまぬ」」。
また氷雨か。

で、千原ジュニア。前作の「14歳」も圧倒的なおもしろさだったが、これもあっちこっち面白い。やっぱり漫才の台本をつくるだけあって、いったん選んだ単語を上手に生かす。こういうのは脚本家は見習うべき。
それにしても芸人さんって、売れるに従って面倒なことがいっぱいあるのね。大変だ、芸人にならなくてよかった。売れない時期は悔しいだろうし、だいたい千原って、大阪でカリスマ的な存在だったから、東京では相当つらかったろうと思う。そういう時期に出たのが「すべらない話」なのだと思うと、youtubeであれを見る目も変わる。…でもお兄ちゃんはもっと仕事がないはずで、その辺はどうなんだろう。やっていけてんのかな。
脚本とか役者とか演出とか絵描きとか、「俺の才能」重視の人が読んで欲しいのはやっぱり事故後の変遷。人のことはいえませんが。私も演劇の脚本とか演出やっている頃は、「俺が一番おもろい」と思っていたし。よく考えたら、そう思える根拠をつくるためだけに芝居をつくっていたのかも。