将棋1局は「物語」だ

頭脳勝負、苦手です。将棋、すごく苦手です。ゲームごとはたいてい負けます。一時期フリーターのたしなみとして競馬を趣味としたことがありましたが、トータルですごく負けていたと思います。パチンコをやる人に「馬なんて言う動物にお金をかけるなんて気が知れない」といわれたことがありますが、まあ、その通りです。だいたいが同じようなクラスの馬ばかりです。将棋では羽生善治氏でも勝率7割そこそこ、たいていの有名な将棋指しでも二勝1敗、つまり6割6分です。ましてや騎手や気象や馬場状態、ともに走る馬の数や相性など全部違うので、競馬はまさに読みの余地があまりない、つまりギャンブルです。で、将棋ですが、自分が将棋が弱いだけに棋士には興味があります。
そこでこの、渡辺竜王の本「頭脳勝負」。
自分のような「ルールは知っているけどへたくそ」みたいな人間にはちょうどよいレベル。また将棋の楽しさとかプロ棋士のレベルの高さもわかります。試合を「序盤」「中盤」「終盤」に分けて、何がどういうきっかけでどう変わって、そういう結果になったのかをわかりやすく説明してくれています。

で、思ったのが、物語との関連性。ある意味、将棋とは設定(駒の位置)と登場人物(駒の数と役割)は同じなのに、毎回結末の異なる物語をつくっているようなものです。途中の何らかのきっかけで物語の流れと結末は大きく変わります。大味な物語(登場人物を使い切れていない、十分な思慮がなされないで次の展開に入っている)があるのと同様、大味な試合もあるでしょう。序盤で最後まで見えてしまう物語もあれば、最後にどんでん返しのある物語もあります。おもしろかったのは「遊び駒がある状況では不利になることが多い」(P182)というくだり。遊び駒というのは動かされていない駒、戦力として使われていない駒のことです。もし脚本でこんな人物があったら困ります。物語の中で何を出発点として、何をゴールとして設定されているのか明確でない人物です。つまりベクトルのない人物設定ですね。大人数が出る演劇では往々にしてあります。でもこれって、演じる役者さんも大変です。何を以てその人物に感情移入すべきか見えないので、自分で脚本にないことをいっぱいつくらなければ鳴りません。そうすると演出家の意向か無理解かどちらかにぶつかることになります。

脚本は駒の数も位置も作者が自分で決められるだけに、可能な範囲でとどめておくのがベストです。これを知ることも大切で、私の場合2〜5人くらいまでがベストのようです。また人数だけでなく、人物のキャラクターや設定も作者の思い入れが十分にしやすいことが大切。これについてはいずれ書きますが、人物が物語の中で演じるベクトルが強いほど、全体としてよいストーリーになります。ベクトルとは方向と強さ。方向はその人物の指向、強さは作者の思い入れです。これを人物1人1人に設定でいないと、よい物語にはならないと思います。そういう意味で、将棋における「物語」は参考になるかもしれません。あ、でも一度死んだ人間(相手に撮られた駒)を再び舞台に出すことは演劇では難しいですね。

つかみは最初の3分。業界関係者は無視

芝居に限らず、映画や本を「おもしろい」とか「おもしろくない」とか言うときは、実は作品そのものの出来よりも、見た人(読んだ人)が今日常生活で抱えている問題やよく考えさせられていることに影響されます。わかりやすい例で言うと、日頃「今時の若者はなっとらん」と考えている人は不良少年が更生して立派な社会事業を営むようになる物語に感動しやすいですが、日頃自然保護について敏感な人に対しては訴求力が弱く、そういった人を「若者の更正物語」に引き込むには力と時間が必要です。それは日頃のその人が抱えているテーマだけでなく、劇場へ来るまでに起こったアクシデントや些細な風向きによっても左右されます。(同じ本や映画を、年月がたってから見直してみると意外におもしろかったりするのは、そのときの自分の文脈が異なるからと考えてもよいでしょう)
そうはいっても、こちらとしては見せた出し物に「おもしろい」と思ってもらわなければなりません。難しく言うと、観客個人の文脈をいかに素早く断ち切って物語の文脈に沿わせるか、ということが重要になります。
落語ではたぶんそのために「まくら」があるのではないかと思います。漫才なら「つかみ」ですね。
もちろん脚本でも笑いの要素を入れてもよいし、アングラ劇団(?)のように歌から入るのも1つの方法でしょう。ダンスから、なんて言うのもよく見かけます。イヤ、最近はないのかな。あるいは演劇として正しく、その物語世界を象徴するようなイメージ的なシーンから入ってもよいと思います。もちろん見せるだけでなく、そこで観客の文脈を一気にこちらの意図する流れにそろえるだけの力がないといけません。衝撃的な一言、印象的な動き、大音量、あるいは人が出てこなくても舞台だけはすごく美しい、でもよいと思います。
そういった意味では実は会場時間中、つまり物語が始まる前に何かを仕掛けておくのも有効です。ただこの場合は、最低30分間の作業が必要なので、あまり緊張感を伴うことは出来ないかもしれませんが。

その意味ではやっかいなのは演劇関係者です。というのは、彼らの抱える文脈は演劇における問題に他ならないので、舞台で何が起こっても、彼らは自分の抱える文脈を忘れることがありません。だから彼らの言う「おもしろい」「おもしろくない」は自分の演劇観と照らし合わせて、その理想に近いかどうかと言うだけです。そしてもっとも自分の演劇観の理想に近い作品は自分のつくった舞台ですから、聞くだけ無意味です。いや、あなたが演劇界で何らかのステイタスを築きたいなら別ですが。

3つもあればいいのに、もう4つ

前回、「イメージできるシーンが3つもあれば脚本はできる」と言う話を書きましたが、すでに3つプラスして、4つのイメージができました。


2つめはオリジナルではなく、実は30日付の日経新聞に載っていた、映画(迷子の警察音楽隊)の1シーンの写真です。でも今書いている脚本を考える上ですごく印象的だったので、わかりやすく描き直しました。
しかし…これで「怪談」はできるのでしょうか。考えれば考えるほど楽しそうな話しか思い浮かびません。絵コンテはまだまだ必要なようです。
いずれにせよ、字を書くうちにのってきて、台詞が台詞を呼ぶようになるまではまだ時期が早いようです。この時期は文字で考えると行き詰まりやすいので、まだしばらくはおもしろそうなシーンを拾うことを優先します。もちろんよい台詞が浮かんだらメモは忘れずに。

シーンを3つ絵に描けば…。

「イメージできるシーンが3つあったら台本はできる」という話を、この世界の先輩から聞いたことがあります。本当かどうかは知りません。私の場合は無理です。でもまずは3つから、その次、その間などのシーンが思い浮かぶことは確かです。それらをつないでいけば、あるいはどうつなぐかを想像すれば、あるいは順序を入れ替えれば、ある程度ストーリーはできあがります。
思いついたシーンがあったら、まずは絵に描いてみるのも1つの方法です。

これだけでも、ずいぶん自分でも想像していなかったことがわかります。例えば、中央の人物がまるで懺悔をしているみたいだとか。こういったことからまた話が広がります。

偶然は何をもたらすかわからない

サスペンスものとかで、主人公が事件とは関係のない趣味や人間関係から、解決の糸口を得ることがあります。脚本づくりにもそういうことがあります。
脚本づくりの手始めは、なんと言ってもアイデア集めです。頭の中で全部構築できれば言うことはないのですが、なかなかそうも行きません。で、行き詰まったらいろんな文献を眺めてみたり、テレビを観たりして何とか別の発想を得ようとします。
私の場合、昨日髪を切りに行ったのが正解でした。

  • この美容師さんは月に一度、ボランティアで病院の患者さんの髪を切っている
  • 高校生の頃、一人暮らしを始めたお姉さんに毎日手紙を書いてた

この2点でずいぶんアイデアが広がりました。
たぶん、この線で今回の脚本は進んでいくことでしょう。おもしろくなりそうです。
しかし実際、もしこの日に髪を切りに行かなかったら、あるいはもし別の人に切ってもらっていたら、あるいはもしこんな会話をしなかったら…。
脚本はどこへ向かっていたでしょうか。これまで書いたものもそうでしたが、脚本は偶然からどのようなヒントを得るかで善し悪しが変わってきます。特に何気ない会話から得るものは大きいものです。結局のところ、脚本は偶然が書くものなのかもしれません。とはいえ、偶然を求めてやたらがっついてもだめなんですが。
もしよいアイデアが貯まらない時は、「運が悪かっただけ」と思うことも必要かもしれません。

まずは条件を確認

来年6月上演の脚本についてですが、先日のプロデューサーとの打ち合わせで、とりあえず条件として以下のことが決まりました。
上演場所

  • ハコは体育館ではなく、教室
  • 広さは8m×8mくらい。高さ2.5m以下
  • 教室への出入り口は1つ
  • 窓はあるが、場所は3階

内容

  • キーワードは「怪談」と「裏切り」
  • ススキノに何らかの関係がある
  • 前回のように大きな場所で大勢でスペクタクルではなく、小さな場所で演出家と役者とが濃密な稽古を積み重ねてできる芝居を
  • 登場人物は3〜6人。性別、年齢は脚本家任せ

以上です。
とりあえず1つひとつの条件から考えられることを列挙します。その後別の条件から出たプランが互いに関係づけられないか、考えます。

今のところ、怪談らしいシチュエーションは思い浮かびましたが、それが自分の書きたいストーリーになるかはまだわかりません。怪談というとどうしてもクローズな人間関係に縛られる上、未来への楽しい希望みたいなものとはリンクしないのが難しいところです。つまり世界観を作れないんですね。改めてそういうことに気づきました。
いかに見た人を怖がらせたあげくに新しい世界観を提示できるか、そんな面倒なことをやろうとしています。怪談なら怪談だけで完結してしまえば楽なのでしょうが。それって、観た後はただ怖いものから解放された開放感だけあって、新しいパラダイムに気づいた喜びがないですよね。
ここら辺が今回の勝負です。

「怪談」についての会談

昨日、来年6月上演予定の脚本について、プロデューサーと演出家、小屋管理者と打ち合わせがありました。
小屋はもう廃校になった小学校の体育館と決まっていて、演出家からはその音響の悪さと広さをどう解消すべきか相談がありました。詳細はおいときますが、脚本担当の私としては、小屋の「体育館」的な容貌をいかに脚本に生かすかが問題です。あらためてその辺のやっかいさを感じました。
脚本を書くときは登場人物の数など物理的な制限があるほどイメージが進みやすいのは以前も書いたと思いますが、上演予定の小屋もその1つに入ります。この芝居は廃校の体育館というすごく特徴的な場所で上演されるので、そこからいかにイメージをふくらませるか、またお客さんと共有できるかは大事なところです。
設定をまんま「小学校の体育館」で進行する物語にすると、今回はよくても次回以降はもう使えません。それに「まんまやないか!」というつっこみまで自分の中から聞こえてきます。ではどうするか。うーん。
ススキノが舞台なので、帰り道でつぶれた大キャバレーとかどうかな。クラブハイツみたいな。そこに集まるもとホステスさんとかボーイさんとか、歌手とか客とか。あ、これならいろんな人が出せそう。